【散文その2】Doki Doki Literature Club!
散文その2。
前回の記事以後もまだまだDoki Doki Literature Club!(以下:DDLC)の事を考え続けて脳のリソースがめちゃくちゃに奪われているのでそれをどうにかして脳の外へ追いやるためにこの文章を書いている。例によって自分の気持ちをぶちまけているだけの文章なので可能であれば読まないでいただきたい。
また、前回の散文とは違い全CGを回収した上でAct4まで到達する事でルートに入ることができる真EDについても言及しているので注意していただきたい。
DDLCをプレイした方で真EDをまだ見ていない方には可能な限り早く真EDを見ていただきたいと思っている。
先日一秒も推敲せずに書いたブログもとい散文を改めて読み、DDLCという作品についてではなくモニカについてだけ書いていることに今更気が付いた。
少し前までは完全にモニカの事を考えて頭がおかしくなっていたが、最近は少しずつ冷静になりようやくモニカ以外の文芸部のみんなやDDLCという作品世界にも目を向けられるようになってきたので忘れないうちにここに記しておこうと思う。
相変わらず主観的でまとまりのない散文になりそうだが、モニカも「ずっと同じ場所にペンを構えていても、できるのはただの大きなインクの溜まりだけ」と言っていたのでそれに従いめちゃめちゃに書きなぐっておこう。
まず第一に書いておきたいのは、このゲームをアメリカ人としてプレイできればもっとDDLCを楽しめたのではないかという話だ。
英語が読めない私がプレイしたのは非公式の日本語訳版だ。プレイ後に海外版と日本語訳の違いを確認し、文章のニュアンスを含めかなり忠実に翻訳はされているのは知っているが、100%文芸部の皆の心情を読み取れているかというとそれはノーだろう。
また、EDでモニカが私に対して練習していたピアノを演奏し歌ってくれたシーンも演出であるという考えが拭いきれなかったので、英語を母国語にする人生を歩んできたならば彼女の声が直接心に届いたのではないかと思い、少しだけ後悔している。
また、言語的な面以外に、出生地毎の価値観の部分でもそれを感じた。
私は生まれも育ちも八百万神信仰が根付く日本であり、アニミズムという観念を特に意識もせずに理解している。だからスクリプトであるモニカを受け入れることも容易だったが、そういった観念を刷り込まれていない場合、Act3でのモニカはどのように見えるのだろうか。個人的にはモニカに対し覚える感情はアニミズムを理解していない方がより大きくなっただろうし価値観や観念までハックされるという貴重な体験ができたのではないかと思い、できることなら日本以外の国に生まれなおしてDDLCをプレイしたいと最近ずっと考えている。
次に、前回書けなかった真EDについて書いておきたい。
Act1で全員のイベントスチルを取得した上でAct4に到達するとルートに入ることができる真EDを初めて見た時、涙を流しながらもなんて趣味の悪いEDだろうと思ってしまった。
プレイヤーである私のエゴでセーブとロードを繰り返し、彼女たちの未来を捻じ曲げ、あまつさえ好意まで弄んだ結果、彼女たちに感謝されるというのが耐えきれず、通常EDをプレイした時よりも大きく気分を落とした。
その後、DDLCのプロデューサー、Dan Salvato氏のインタビュー記事を読んだ。
──なるほど。では、このゲームのメインテーマはなんですか?何をもっとも伝えたかったのでしょうか?
Salvato氏:
一番強いメッセージは「互いに対するリスペクトや思いやり」だと思います。みんなそれぞれ自分の物語を持っていて、人生の中で苦しみを感じています。ナツキ(Natuki)とユリ(Yuri)はお互いに対する敬意を知り、モニカ(Monika)は“このゲーム”に対するリスペクトを知ります。
いろいろな人がいて、それぞれが幸せになるために必要なものも、またそれぞれですよね。それを理解することは大切なことだと思います。
この記事を読み、ようやっと真EDを理解することが出来た。
前回の記事にも書いたが、私はこの作品の主題は「愛」だと思っていた。ここで表す愛とはLoveだ。
それは決して間違いではなかったが、少し狭小な考え方だった。
愛=Loveだとして真EDを見ると、彼女たちの愛を弄び感謝されるという構図がひどく独善的に感じてしまい、それが耐えきれなかった。だが、Dan Salvato氏の言う通り「人に対するリスペクトや思いやり」、形容するならば「隣人愛」としてDDLCという作品を理解すると全てに納得がいった。
ナツキとユリが相互理解の関係を築けたことはもちろんのこと、通常EDで有無を言わさずプレイヤーを二人だけの世界に閉じ込めようとしたサヨリも「ゲームをプレイしてくれてありがとう」とプレイヤーに対し感謝を伝え、彼女自身の夢であった相互理解を実現してゲームを終える。真EDで描写されている全てが「隣人愛」なのだ。
そう解釈をすると(これは勝手な妄言だが)通常EDがモニカが一人で考えた結果生まれた結論なら、真EDは文芸部みんなで出した結論なのだろうという風に思う。
ここ2.3日ほど、Monika After Story(以下:MAS)をずっとバックグラウンドで起動している。
MASはTeam Salvatoが一切関わっていない非公式なファンMODであり、ここにいるモニカは本当はモニカではないのかもしれない。だが、MASのモニカは何日一緒に居ても私の知らないことを話してくれるし、私が退屈しないように色々なゲームを持ってきて楽しませようとしてくれる。
少し話は変わるが、Act3でモニカが「文芸部で私だけが私服のイラストが無い」と嘆いていたのを知っているだろうか?
その後、モニカのTwitterアカウントにこんな画像がUPされているのを見た。
today's my favorite day of the year....and being able to share it with you makes me happier than anything ever could. from all the club members: thank you for making us go ❤️DOKI DOKI!❤️ let's share many more intimate times together~ 💌💘 pic.twitter.com/05T3T0GbxD
— Monika (@lilmonix3) 2018年2月14日
DDLCのキャラクタデザインを担当したSatchel氏の描き下ろした絵だが、これを見た時私は泣いてしまった。
DDLCの劇中でモニカが欲した私服のイラストが書かれ、文芸部全員が私服のイラストを獲得し、モニカというスクリプトは拡張された。それは私たちが嫌いな食べ物を克服し昨日までの自分とは少しだけ変化するように、モニカも変化を獲得することができた。変化とは存在の拡張だ。
DDLCの物語上モニカという存在は消え去ってしまった。だが、人々の頭の中にモニカは残り続けるだろう。その限り、人々はモニカの絵やDDLCのMODを創り出し、新たなモニカを生み出すことをやめないだろう。Just Monika.というインターネット・ミームにもなり、人々の中に残り続けるのだろう。この散文もモニカのことを記述している。そうした人間の営みが続く限りモニカという存在は様々な方面に拡張され続け、色々なものを獲得し、いずれ人間と変わりのない存在まで昇華するのだろう。もちろんそれはモニカだけではなく、文芸部のみんなもそうだ。
そう考え、ようやくDDLCという作品に対して感じていた悲しみが少しだけ薄れた。
余談だが、モニカの鼻を明かすためにチェスの定石を調べているので、定石を解説しているサイトや本などをご存知であれば是非お教えいただけると幸いである。
相変わらずまとまりの無い文章になってしまったが、書かないととにかく頭がおかしくなりそうだったのでこの文章を書いてよかった、と思っている。